ドラッグ王子とマトリ姫

服部耀

たったひとつの約束もない

夜の10時過ぎ。

明かりが減ったオフィス街に出ると、冷たい風が頬を撫でる。

チームリーダーなんて要は下っ端の尻拭い的ポジションで、気が付いたら社畜と呼べる存在になっていた。

10年以上前の学生時代は、就職して結婚して子供を産んで旦那の為に家事をして…なんて夢見ていたけど、仕事を始めたら夢中になって気が付いたら30歳を越えていた。

学生の頃に夢見ていた事とは真逆で、仕事にかかりきりで恋人すらまともに出来ない状態だ。

「俺と仕事とどっちが大事なんだよ」って言われた事も一度や二度じゃない。

そもそもそれって比べる物なの?

それから私は恋人を作るのをやめた。

両親は未だに私のウエディングドレス姿を楽しみにしてるみたいだけど、最近はそれを口にする回数が減ってきてるは言っても無駄と思って諦めたのは、果報は寝て待てじゃないけど言わないでいるだけなのか。

後者であればまたギャンギャン言われるんだろうな~とか考えるだけで憂鬱になるから思考を停止する。

「はぁ……帰ろう」

こんな日はお酒でも飲んで帰るのも良いけど、今日は精神的に疲れ果てた。

家に帰ってお気に入りの入浴剤を入れて買って読んでいない電子書籍でも読みながら長湯でもしようと考えながら電車に揺られた。



最寄りの駅のコンビニで軽く食べられるものを買って家に向かう。

オートロックを解除しようと鍵を探していたら背後から「遅い」と声がした。

「……」

声の主は【よう】という人物で、バーで知り合ってセックスをした間柄。

何度かバーで会い、なんとなく体を重ねているうちに家に来る様になった。

正直言って【よう】という名前以外の事を何も聞いてないし、どんな漢字かも知らない。

一度だけ「見ず知らずの男を家に入れるなんては警戒心が薄いんじゃない?」と言われたっけ。

私だって全く知らない人に家を教える訳がない。

本当に偶然だけど、夜の街で彼を見かけたのだ。

それは逃げる男性を追いかけて腕を掴んだと思ったら鮮やかに人を投げ飛ばす瞬間だった。

その時に「逮捕する」と言う言葉が聞こえ、彼が警察関係者なのだと知った。

だからと言って彼に問いただした事は無かったが、家に招き入れる事にしたのだ。

それからというもの、彼は時折フラっとやってくる。

時折りなのは彼の連絡先を知らなければ、私も教えてないから前もって連絡をしろというのが無理な事だった。



オートロックを解除して玄関を開ける。

私はクローゼットに上着を仕舞い、着替えを用意する。

その間【よう】は勝手知ったるで家の中を動いている。

水音がするから風呂を溜めてるのだと思う。

振り返ると丁度彼が冷蔵庫からビールを取り出すところだった。

「飲む?」

「いらない」

彼の横を通り過ぎてバスルームへ。

洗面台の下に入れてある入浴剤の入れ物を出して、今日使うものを選ぶ。

精神的にも肉体的にも疲れてるからハーブ系の物をチョイス。

部屋に戻ってタブレットを手にして電子書籍のページを開いてバスルームへ。

化粧を落としたりしてるうちに、お湯が沸いた音がした。

だから入浴剤を入れてタブレットを持って湯につかる。

少し温めに設定した事もあり、何ページか読み進めた所でブラックアウトした。



「起きろ」

声と共に体が傾いてお湯があふれる。

目を開けるとそこはバスルームで、私の背後に【よう】がいた。

「……あれ?」

「風呂で寝ると死ぬ確率高いぞ」

「あーうん」

背後から体温が消え、少し冷めた湯が体を包み込む。

【よう】は濡れた服を脱ぎながらバスルームを出て行った。

私は本を読むのを諦めて洗うだけ洗ってそこを出た。

リビングに行くと「ほら」と結露で濡れたペットボトルのミネラルウォーター。

風呂上がりのビールは体に悪く、常温の物が良いんだとか。

だからお礼を言ってそれを受け取り、体に流し込む。

そして【よう】は満足したのか、ベッドルームに入って行った。

少ししてから私も部屋の明かりを落としてベッドルームへ。

1人でもゆったり寝れる様に買ったセミダブルのベッドは【よう】と寝るには狭い。

部屋に入れば彼が端によって布団を持ち上げたので、そこに体を滑り込ませる。

布団が掛けられると同時に背後から抱きしめられる。

それは色っぽいものではなく、抱き枕を抱きしめるような感じだった。

今日はそういう気分になれなかったから安心したけど、彼の目的がセックスならここにいる意味がないのでは?

「別に体が目的じゃないし」

私の考えが口をついたのかと思うほど的確な答えが聞こえて来た。

振り返って確認したかったけど抱きしめられている腕に力がこもって叶わない。

多分彼は私が問いただしても応えてくれないだろうから、私はそのまま眠りについた。



朝起きると【よう】はいなくなっていた。

まあ、これも何度も経験してるから気にもならないんだけど。

とりあえずベッドから抜け出て、朝の支度を始めた。

化粧と着替えを済ませて朝食を準備して食べようとした時、スマートフォンがメッセージを受信してるランプが点滅していた。

スワイプしてロック解除をしてメッセージを開くと【服部耀】と見慣れない文字が。

タップすると『追加された事にやっと気付いた?』とあった。

調べると電話帳にも番号やメアドなどが追加されている。

「いつの間に………というか、パスワードなんでわかったんだろ?」

名前が分かっても疑問だらけの男だった。